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東映京都のあゆみ

 
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歴史

時代劇発祥の地・京都

京都は794年から1868年までの1074年間、都があった王城の地です。日本映画史は、1897年、この京都でパリから輸入されたシネマトグラフの試写実験をした時から始まります。京都には、社寺や古い町並みが多く残っており、近隣には山や渓谷など自然も豊かでした。また伝統文化や芸能が温存されているという文化的特性や、工芸、服飾などの伝統産業従事者が多く住んでもいました。そんな環境が「時代劇」という映画の一大産地を形成していきます。以来、京都では多くの撮影所と製作プロダクションが興亡し、特に多くが太秦界隈に集中したので、そこは日本のハリウッドと呼ばれ、日本映画製作のメッカとなりました。ですが現在、京都に現存する撮影所は、太秦にある松竹京都撮影所と東映京都撮影所の二つのみです。

東映京都撮影所の前身

この東映京都撮影所の歴史は1926年5月から始まります。この場所に初めて撮影所を作ったのは、当時の大スター・バンツマこと阪東妻三郎です。しかし「阪妻プロ太秦撮影所」は経営に行き詰まり、「松竹太秦撮影所」と経営が替わり、さらに終戦を迎える1945年まで、「帝キネ太秦撮影所」「新興キネマ太秦撮影所」「大映京都第二撮影所」と幾度も経営が変わり、戦争で製作本数も減り、ほとんど使われなくなります。戦後の1947年、「東横映画撮影所」となり、『きけ、わだつみの声』などが作られます。1951年4月、「東映株式会社京都撮影所」が誕生します。

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東映時代劇全盛

そして占領軍のチャンバラ映画の解禁により、この撮影所で時代劇が次々に撮影され始めます。片岡千恵蔵、市川右太衛門、中村錦之介、東千代之介、大川橋蔵、大友柳太郎らの多くの時代劇スターを揃え、子供には『笛吹童子』『紅孔雀』『里見八犬伝』などが、大人向けには『忠臣蔵』などのオールスター映画が、大量に世に送り出されます。1954年東映の東西撮影所に新ステージが完成し、東映の製作本数は103本となり、年間製作本数世界第一位となります。東映は球団「東映フライヤーズ」も所有する、破竹の勢いで事業を拡大していきました。この頃「時代劇は東映」のキャッチフレーズも生まれました。1955年頃、日本映画は全盛期を迎えます。当時の日本の人口は90,928,000人です。観客動員数のピークは1958年の1,127,452,000人で、邦画と洋画のシェア比は、76.1%と23.9%でした。スクリーン数の最大は1960年の7,457で、公開映画の数は邦画547本、洋画216本の計763本です(参考表:下記掲載)。この年の東映京都作品の公開数は85本であり、このころには、『血槍富士』や『宮本武蔵』等の名作も多く生まれ、日本映画初のワイドスコープ映画『凰城の花嫁』も封切られました。

時代劇は劇場からテレビへ

しかし1960年頃になると日本映画は衰退の一途をたどり始めます。東映京都撮影所も時代劇の製作本数が減ってきて量より質の大作『反逆児』等の作品が作られるようになりました。中でも『武士道残酷物語』は1963年ベルリン金熊賞を受賞しました。ですが時代劇の観客動員数減少の歯止めとはなりませんでした。この時期、時代劇は映画館からテレビへと移行しはじめます。撮影所内でもテレビ番組の製作を主とした(株)東映京都テレビプロや(株)東映京都制作所という会社が設立されます。そこからTV時代劇として『忍びの者』や『素浪人月影兵庫』『銭形平次』『赤影』『遠山の金さん』『燃えよ剣』等が作られるようになり、人気シリーズが多く生まれます。現在では(株)東映京都テレビプロは解散し、(株)東映京都制作所は東映太秦映像(株)となりましたが、今なお長寿時代劇番組『水戸黄門』の制作にたずさわっています。また、1970年代後半には撮影所自体も映画作品だけでなくテレビ作品の製作を手掛けるようになります。

任侠映画の時代へ

劇場用映画では、製作本数は減りましたが、時代劇に代わる新たな路線、任侠シリーズが開拓されました。鶴田浩二、高倉健、若山富三郎、藤純子、菅原文太らのスターを擁して『日本侠客伝』『兄弟仁義』『緋牡丹博徒』等の各シリーズがヒットします。70年安保騒動の世情の中、刺青を背負いアウトローヒーローとして、義理、人情、仁義、という独特な日本的様式美の世界が人気を博しました。さらにそれに続く実録シリーズでは、あえて様式美を破壊し、欲望のままに突き進むアウトローを描いた作品『仁義なき戦い』が作られ、大ヒットしました。

撮影所の副産物・映画村盛況

1975年には、撮影所のオープンセットを開放しナマの撮影現場を見せるという画期的なアイデアのもとに、「東映太秦映画村」を開設しました。日本のテーマパークのさきがけともいえる、この企画は大当たりして京都観光の名所の一つとなりました。5周年目の1980年には開村以来入村者数1000万人を越え、1984年には2000万人、1989年には3000万人を突破します。さすがに入場者数は減ったものの、現在も年間100万人近い入村者が訪れる京都観光の一つとして運営されています。

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女性路線健闘

女性の社会進出が叫ばれるようになった1980年頃には、女性文芸路線として『鬼龍院花子の生涯』が花開き、以後女優が主役を張る作品シリーズが人気を博しました。さらに任侠ものでも女性主体の『極道の妻たち』が女性客に受け、『ゴクツマ』としてシリーズ化されました。

日本最大の製作プロダクション

こうして東映京都撮影所は、本数はかなり減りましたが、近年でも、10世紀の王朝物、『ひかる源氏物語~千年の恋』から、戦国物『茶々』、江戸物『憑神』、第二次世界大戦時の『男たちの大和』まで、幅広い時代の作品の製作を行っています。もちろん、劇場用映画だけでなく、テレビ作品、CM、その他映像コンテンツも扱っています。技術革新が急速に進みハードや、配給形態がめまぐるしく変わりつつありますが、どんな世になろうとも、ソフト・コンテンツはこれからも必要とされます。 現在、日本国内で稼動している撮影所は東宝の砧撮影所、松竹の京都撮影所、角川の多摩川撮影所、日活の調布撮影所、東映の大泉撮影所と京都撮影所の6ヶ所だけです。この中で最大の敷地面積を持ち、かつ企画,製作、配給興行まで、一貫してプロダクションとして関われるのは当撮影所のみです。かつてメジャーと言われた大手映画会社の多くは、現在では自前で映画を製作することはほとんど無くなり、テレビ局主導の映画、あるいは製作委員会方式、または製作プロダクションの作品を買い上げ配給しています。撮影所も多くは貸しスタジオ化しています。誰でも映画を作れる時代となり、産業としての映画は難しい時代となりつつあります。 ですが東映京都撮影所は「日本映画最後の牙城」として、撮影所でしか作れない映画、また日本の文化財「時代劇」を生かせる映画やコンテンツを模索し作り続けています。

(参考文献:クロニクル東映II、京都シネマップ映画ロマン紀行・1994年京都国際映画祭組織委員会)

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設備

総敷地面積
73,620平方メートル
(京都撮影所:43,979㎡ 東映京都スタジオ(東映太秦映画村):29,641㎡)
ステージ数
19ステージ
大型ステージ
No.1 (縦35.64m×横23.22m 面積912㎡)
No.11(縦 39.51m×横23.73m 面積1025㎡)

本館

管理部、製作部、企画営業室、編集室、映画用試写室、スタッフルーム等のプロダクションの中枢部が入っています。

技術会館

ダビングルーム、MA室、テレビ用試写室等が入っています。

俳優会館

演技事務、衣裳室、メイク室、結髪室、俳優控室、道場等が入っています。

厚生会館

所員食堂、喫茶、美術課、別プロダクション東映太秦映像(株)や俳優養成所等が入っています。

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参考データ(日本の映画人口)

  日本の人口 映画入場者数 スクリーン数 公開本数 邦画シェア 洋画シェア 京撮
1958年 91,767,000 1,127,452,000 7,067 673 76.1%(504) 23.9%(169) 63
1960年 93,419,000 1,014,364,000 7,457 763 78.3%(547) 21.7%(216) 85
2007年 127,733,000 163,193,000 3,221 810 47.7%(403) 52.3%(407) 2

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